2008年10月28日

歴史紹介 ~京浜急行と2つの駅~

初黄・日ノ出町地区の発展を支えたものの一つが、この地区を貫くように通る京浜急行です。

この地区に初めて鉄道の駅ができたのは、1930年(昭和5年)4月のことです。
横浜~三浦半島間の輸送を目的とした湘南電気鉄道が黄金町~浦賀の営業を開始して、黄金町駅が誕生しました。

品川~横浜間を走る京浜電気鉄道が、長者町(現在の日ノ出町)まで延伸する予定があったので、
湘南電気鉄道も三浦半島から長者町まで線路を設けたい、という申請を出し、ひとまず黄金町~浦賀を開通させ、
黄金町駅と横浜駅間は、京浜電気鉄道と湘南電気鉄道による乗合自動車でつないぎました。

しかし、ライバル路線の横須賀線が電化してスピードアップしたことや全国的な不況、
そして東京方面への連絡が面倒という理由で当初の運輸成績は思わしくありませんでした。
そこで業績向上案として、黄金町~日ノ出町の延長線を建設するか、
日ノ出町からさらに北東方向の桜木町まで延長する、という案が出されました。

結局、工事費などの問題から、黄金町駅~日ノ出町の延長に決まりました。
線路用地は国鉄が所有していたものを譲り受けました。

こうして、湘南電気鉄道が黄金町から、京浜電気鉄道が横浜から延長した線路が出合う駅として、
1931年12月に日ノ出町駅が開設されました。ただし、軌道の関係で当初、2つの路線に続けて乗るには、
この駅で乗り換えが必要でした。品川~浦賀間が直通運転になったのは1933年のことです。

なお、1941年に京浜電気鉄道は湘南電気鉄道を併合し、翌年にはさらに東京急行電鉄と合併、
1948年に東京急行電鉄が分割され、京浜急行電鉄となっています。


現在の黄金町駅です。



こちらは日ノ出町駅の様子です。

kato

(photo by terada)
  

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2008年10月28日

歴史紹介 ~かつて市電が通った~

今日のテーマは「市電」です。

黄金町駅前の交差点は、かつて、路面電車(ちんちん電車)のレールが交差していました。
多い時にはここを4路線が走り、黄金町界わいには初音町、日の出町二丁目、
日の出町一丁目などの停車場がありました。

この界わいを初めて路面電車が走ったのは1913年(大正2年)、西戸部線(戸部橋~日本橋)が開通し、
霞町と日本橋の間に「初音町」という停車場ができたときのことです。
この路線は、後の浜松町から阪東橋へ抜ける路線に近いものの、
初音町付近では、現在の藤棚浦舟通りの西側の通りを抜けていました。

最初は民間の横浜電気鉄道株式会社が運営していましたが、1921年(大正10年)に横浜市が買収しました。
その後は路線網も広がり、1928年(昭和3年)には長者町線の長者町五丁目~ 野毛坂間(日の出町一丁目経由)、
翌年には日之出町線の桜木町駅~吉野町三丁目間(日の出町一・二丁目、初音町経由)が開通し、
黄金町界わいを走る電車も増えました。

1923年(大正12年)の関東大震災で、市電は大被害を受け、復興しましたが、
1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲でも大きな被害を受けることとなりました。
初音町を通る浦舟町~洪福寺前間は、空襲から1か月もたたない6月20 日に運転再開したものの、
初音町や日の出町一丁目を経由する桜木町駅~吉野町三丁目間は1947年4月1日にようやく復旧となりました。

1957年が市電の最盛期で、その後、自動車社会の到来により、衰退していくこととなりました。
1969年には浜松町~阪東橋間が廃止され、初音町交差点を通る市電は一方向になり、
日の出町一・二丁目を通る路線も、全面廃止となった1972 年になくなりました。

kato  
タグ :横浜市電

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2008年10月28日

歴史紹介 ~映画との深い関係~

今日はテーマは「映画との深い関係」です。

初黄・日ノ出町地区の大岡川を挟んだ対岸の伊勢佐木町界わいは、
長く日本の映画文化をリードしてきた地域です。

明治10年代から芝居小屋が集まり、1911年(明治44年)には
日本最初の洋画専門映画館としてオデヲン座がオープンしました。

1923年(大正12年)の関東大震災後は、芝居小屋が映画館へ転換していきました。
そして、昭和30年代後半の全盛期には、40館以上の劇場が存在していました。
 
伊勢佐木町と隣接する黄金町界わいも、『天国と地獄』や「私立探偵・濱マイク」といった
名作映画の舞台になるなど、映画と深いつながりがあります。


kato
  
タグ :映画

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2008年10月28日

大岡川の生き物

今日は大岡川の生き物について紹介します。

初黄・日ノ出町沿いの大岡川の、太田橋から長者橋にかけての流れは、
上流からの淡水と、河口から入ってくる海水が出合う、汽水域に当たります。
汽水域では、表面は真水で、底の方が塩辛いというようになっています。
しかし、河口から1kmほどしか離れていない長者橋付近では、表面の方まで塩辛い水になっています。

このような水の特色は、この辺りの川にすむ生き物にも表れています。
海から時折、川に入り込み、川の下流から河口、海の沿岸域に生息する
マハゼやスズキ、ボラなどの周縁性淡水魚が多く見られるのが、その特色の一つです。
海の魚であるクロダイも、春になると上がってきます。

まさに、たくさんの命の宿になっている川も、高度成長期のころは水質が悪化して、
魚がいるなど考えられない状態でした。
その後、下水道の整備が進むとともに、地域住民が川をきれいにする活動を進めてきたことが、
魚の生息環境の向上につながりました。

その成果を象徴する出来事が10 年ほど前、起こりました。


長者橋付近でワカメが発見されたのです!!

海水で育つワカメは、海の水が入り込んでいる川底一面に育っていました。
その後も毎年育ち続け、その周りにはメジナなどの魚が群れたり、
カニ、ゴカイ、イソギンチャクなど多様な生き物が集まっています。

水辺ではスズガモ、カイツブリなどの鳥も見られます。
貴重な自然に触れられる川は都市に暮らす人々にとって安らげるスポットであり、
人も魚も鳥も、そのほかの多様な生き物も交流する貴重な場となっています。

kato
  

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2008年10月23日

歴史紹介 ~地域の桜への思い~

今日は地域の桜への思い」をテーマにお届けいたします。

かつて、初黄・日ノ出町界わいの大岡川べりは柳並木でした。
やがて上流の南区で、川沿いに桜並木の整備が進められた影響で、
初黄・日ノ出町界わいにも桜を、という声が高まり、
1980年ごろから桜(ソメイヨシノ)へと植え替えられていきました。

現在、太田橋から旭橋までの左岸のプロムナード整備が進められています。

事前に整備予定区間の桜を調べたところ、当初の植え方などの問題から、倒壊の恐れのある木も見つかりました。
そこで、3期に分けて行われるプロムナード整備に合わせ、すべて植え替えることになりました。 

ただ、せっかくの桜を何とか利用できないか、という声も地元から出てきました。
アーティストの支援などに取り組み、プロムナードに面したBankART 桜荘を運営するBankART1929 がそれを受け、
「桜プロジェクト」と題して、切った桜の木で作品をつくりませんか、とアーティストに呼びかけました。
それにより臼と杵、ベンチ、絵などが生み出され、今後も増える見込みといいます。

こうして地域の桜への思いは、いろいろな形で広がっているのです。

kato
  
タグ :大岡川

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2008年10月23日

大岡川の橋(3) ~旭橋・長者橋~

歴史シリーズ「大岡川の橋」の3回目は、旭橋と長者橋です。

まず旭橋から紹介します。

旭橋には橋がペアで架かっています。



下流(写真右)側の橋は、震災復興により1928年に架けられた橋で、人も車も通行できます。
上流(写真左)側の幅の狭い橋は人道橋で、1971年(昭和46年)に完成しました。

5つの橋のラストに紹介するのが最も下流側の長者橋です。

長者橋はコンクリート製のアーチ橋です。江戸時代から架けられていましたが、
1873年(明治6年)、通行量の増加を受けて、規模を大きくして再建し、
名前も右岸の町名を取って付けられました。
この橋にもかつて市電が通っていました。



写真は現在の長者橋です。
日ノ出町駅からすぐということもあって人の流れは多く、
また車の通行量もこのエリアの橋の中では太田橋とともに多いです。


これで5つの橋の紹介は完了です。

お読みくださりありがとうございました。

kato

(photo by terada)
  

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2008年10月23日

大岡川の橋(2) ~末吉橋・黄金橋~

今日は、昨日お伝えした「大岡川の橋」の第2回目として、
末吉橋と黄金橋の歴史を紹介します。

末吉橋は、初音町と英町に挟まれた赤門通りに続いている橋です。
伊勢佐木町方面から橋を渡り、赤門通りを進み、「赤門」の名で知られる東福寺を過ぎたところ、
現在の赤門町2丁目に、明治の中ごろ、鐵(てつ)温泉という鉱泉の旅館がありました。
横浜を訪れた政府要人が宿泊したり、横浜商人と役人との密談の場になっていたといわれます。
日本の初代総理大臣、伊藤博文はここを定宿にしていて、
鐵温泉に通うため、この橋をよく利用した、と伝えられています。



写真は現在の末吉橋です。


次に、黄金橋を紹介します。
黄金橋の初代の橋は、1873年(明治6年)に架けられました。
当時、日ノ出町に屋敷を持っていた木材商駿河屋の主人、長谷川秀造が、
地元で橋がなくて困っているのを知り、この橋の建設費を寄付したといわれます。
秀造は日ノ出町出身の劇作家、長谷川伸の父の伯父に当たる人物です。



写真は現在の黄金橋です。


歴史シリーズ「大岡川の橋」の次回は、旭橋と長者橋を紹介します。

kato

(photo by terada)

  

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2008年10月23日

大岡川の橋 (1) ~太田橋~

今日からは、「歴史」シリーズをお伝えします。
今回は大岡川に架かる橋にスポットを当てます。

初黄・日ノ出町沿いの大岡川には5つの橋がかかっています。
この辺りの川は、江戸時代初め、新田開発により形成されたので、
橋が架けられたのはそれ以降になります。最も古いのは長者橋と見られ、
太田橋の辺りにも江戸時代から、小規模な橋が架かっていたようです。

1923年(大正12年)の関東大震災前には5つの橋すべてがそろいましたが、
震災ですべて焼失し、1928~1929年(昭和3~4年)に新しく架け替えられました。

その橋も築造から既に80年が経過し、末吉橋は2007年(平成19年)にリニューアルしました。

これから3回に分けて、5つの橋を上流から順に紹介します。

まず今回は、最も上流側の太田橋です。



黄金町駅の、日ノ出町寄りホームから見える橋が太田橋です。
鋼製で、親柱(橋の両端の柱)は、時代劇に出てくる木造の常夜灯を思わせますが、
これも金属でできています。震災復興事業で新設された道路(藤棚浦舟通り)の途中にあり、
1928 年から1969 年まで市電が通っていました。

歴史シリーズ「大岡川の橋」の次回は、末吉橋と黄金橋を紹介します。

kato

(photo by terada)

  

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2008年10月23日

歴史紹介 ~3人の大作家を育てた(3):大佛次郎~

今日は大岡川沿いの地域の歴史についてお伝えします。
地域にゆかりのある作家の紹介の3回目です。
今回は大佛(おさらぎ)次郎(本名・野尻清彦)をとりあげます。


1897年、英町1丁目で、『鞍馬天狗』や『パリ燃ゆ』などの小説で知られる大佛次郎が生まれました。

吉川英治より5歳下で、同じ小学校に入りましたが、大佛が入学したときには吉川は退学していました。
大佛も1年生の時、一家で東京に移って転校したので、この小学校にはわずかの間しか通っていません。

それでも後に随筆「幼児の記憶」(大佛次郎『旅の誘い』所収)で
「町の遊び友達の紺屋の息子のこと、入学した太田小学校の教室の窓ガラス戸でなく障子をはめてあったこと、
小さい少年の日の情景が、きれぎれに思い出の中に浮かんで来る。」と
当時の様子を鮮明に回想しています。


作家の紹介は以上になります。

kato


  
タグ :歴史作家

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2008年10月23日

歴史紹介 ~3人の大作家を育てた(2):吉川英治~

今日は地域の歴史について紹介します。
先日に続いて、地域にゆかりのある作家の紹介をします。
今回は、吉川英治をとりあげます。

1900年、初音町の西の赤門町(当時は清水町)に、8歳の吉川英治が家族で越してきたました。
大衆文学の代表と評される『宮本武蔵』や『新・平家物語』などで知られる
吉川英治(本名・吉川英次)は、1892年、現在の中区山元町で生まれました。

清水町に越してくると、母方の祖父と伊勢佐木町へ芝居を見に出かけたりもしていましたが、
数年後、父が事業に失敗して生活が苦しくなり、南太田の太田尋常小学校をやめさせられ、働きに出ました。
いろいろな仕事を経た後、第二ドックの船具工となり、26歳で上京しました。

清水町に住んでいたころ、町内の家々を取り巻くように小川が流れていたこと、
横浜で仕事を転々とした経緯などを、後に『忘れ残りの記』という回想記的な作品に書いています。

kato  
タグ :歴史作家

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2008年10月23日

歴史紹介 ~3人の大作家を育てた(1):長谷川伸~

今日は、歴史に関してお伝えします・
今回より3回にわたって、大岡川沿い地域にゆかりのある大作家を紹介します。
その第1回目となる今回は、長谷川伸をとりあげます。

長者橋の日ノ出町側のたもとに長谷川伸の碑があります。
評論家の平岡正明さんが1997年(平成9年)に建てた高札風のものと、
2002年に日ノ出町町内会と日ノ出町駅前商店会が建てた石碑とがあります。
いずれもこの町が、『瞼の母』『一本刀土俵入』などで有名な劇作家の生誕の地であることを伝えています。

長谷川伸(本名・長谷川伸二郎)は1884年(明治17年)生まれ。
大伯父は越後出身の大工で、開港とともに横浜に移り、まちづくり工事に携わりました。
明治時代初め、日ノ出町に材木商駿河屋を構えたが、後を継いだ父の代になって倒産し、伸は小学校を中退して働くことに。
現在のみなとみらい地区にあったドックの工事請負人のところで住み込みで働いたりして、
日ノ出町からは離れましたが、27歳の時に東京の新聞社に入るまで横浜にいました。

そして、後年、渡世人を描いた小説や戯曲で認められることとなりました。

kato  
タグ :歴史作家

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2008年10月23日

歴史紹介 ~桜まつり~

今日は、春に大岡川沿いで開催される「桜まつり」について、
地域のあゆみの一つとしてお伝えいたします。

桜の季節になると、初黄・日ノ出町に面した大岡川両岸に見事な桜並木が現れます。
この時期に、中区の大岡川周辺で「大岡川桜まつり」が展開されます。

16回目を迎えた2008年(平成20年)は、4月5・6日の週末に開催されました。
川沿いに露店や屋台が並んだほか、周辺の施設を利用して橋のスタンプラリー、
大岡川桜ウォーク(川べりを歩く会)、大岡川学校(親子で川と環境について学ぶ教室)、
Eボート(10人乗り手こぎボート)などの乗船会、黄金町バザールのプレイベントと
多種多様な催しが繰り広げられました。

桜とともに大岡川を活用していることも特徴です。船上で音楽を演奏したり、
ボートやカヌーなどで川を往来する体験を提供しています。

川という貴重なオープンスペースを身近に感じてもらい、
環境保全などに結びつけたい、といった狙いがあるのです。

kato
  
タグ :大岡川

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2008年10月23日

本当に防空壕?~黄金町と大空襲~

空襲によって日本中が焼け野原になったということは、誰もが知っている事実でしょう。

終戦間近の1945年5月29 日の横浜大空襲では、関内・関外地区を含む
横浜の広い範囲が甚大な被害を受けたといいます。
地図上のすべての着弾点に画鋲で穴をあけていったら地図が穴だけになってしまう、
と小学生の頃、横浜大空襲について習った記憶があります。

初音町沿いの高台にある横浜市立東小学校も、空襲の悲劇が起こった場所の一つです。
戦争当時、東小学校のもとである東国民学校は、横浜市役所東分庁舎として使われていました。
大空襲のあったその日は、役所ということに安心感もあったのか、
一寸先も見えないような煙の中多くの人々が避難してきたとのことです。

また、初黄・日ノ出町、末吉町などからも、ふだんから「空襲のときは山の方へ逃げろ」と言われて、
多くの人々が逃げてきました。人々は学校裏の防空壕や校舎内に避難しましたが、
校舎はその後、炎上したため、防空壕以外に避難した人のほとんどは犠牲となったそうです。
防空壕に逃げた人々も、壕に入ってくる校舎の煙に苦しめられたといいます。



先日、この防空壕の取材のために東小学校へ行ってきました。
防空壕があったという裏の山の写真を撮らせてもらおうと、遊んでいた小学生に尋ねたところ、
なんと案内されたのは学校の裏ではなく、表側の方でした。

グラウンドの下の斜面に、確かにそれっぽいものがありました。
先生もこれは防空壕だと言っているそうです。



念のため、通りかかったおばあちゃんにもう一度防空壕について尋ねてみたところ、
今度は期待通り裏の山の方を教えてくれました。ちなみに現在では壕は埋められてあとを見ることはできません。


グラウンド下の方については、昔の水道施設か何かじゃないかということでした。




グラウンド下の穴は、もう一つの防空壕なのかそれとも他の施設なのか、
若干の謎が残った取材となりました。 黄金町バザールをきっかけにして、
この地域の歴史が若い世代にもっとリアルに伝わっていくとよいと感じました。


sasaki  
タグ :黄金町歴史

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2008年10月23日

黄金町と関東大震災 ~神社が移動?~

日の出町2丁目の山側にある「子の(ねの)神社」。

実はこの神社、関東大震災の前までは大岡川に架かる黄金橋のたもとにあったといいます。

1923年(大正12年)9月1日、マグニチュード7.9の関東大震災で、横浜は甚大な被害を受けました。
特に被害が大きかったのが中心部の関内地区で、関外地区はそれに次ぎました。

初黄・日ノ出町、周辺の英町などでは民家や店舗が倒壊、炎上して多くの死者を出しました。
あちこちで火災が発生し、しかも、この日、強風が吹いたため、
人々は火を避けて逃げなければならなりませんでした。

しかし、関外を巡る川に架かる橋のほとんどが倒壊炎上したため、
逃げ道を失った多くの人々が犠牲となりました。
日ノ出町周辺は建物が密集していたことも、被害を大きくした一因であったといいます。

復興への取り組みは震災後、すぐ始められました。
食料や水の確保などの緊急性の高い対策に続いて、道路網整備と、
それに必要な用地確保などのため、土地区画整理が行われました。

このような整理により、子神社も、黄金橋から今の場所まで、
はるばる約150メートル移動してきたのだといいます。

sasaki


参考文献=今井清一『横浜の関東大震災』、
中区制50 周年記念事業実行委員会『横浜中区史』横浜市、
『中区わが街─中区地区沿革外史』〝中区わが街〟刊行委員会・横浜市中区役所
  

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2008年10月23日

明治時代 - 並木と大岡川

毎年春の季節の恒例となった大岡川桜祭り。
今では桜がこの川の主役になっていますが、1980年頃までは大岡川の並木は桜ではなかったそうです。
 
ではここでクイズです!!
Q.かつて大岡川の川べりに植えられていた木は、なんの木だったでしょう??















ヒント:

ヒントはこの写真に隠されています!
(写真:太田橋。京急黄金町駅を出てすぐのところにある)






















答えは…

柳です。

そのワケには、この地域の発展の過程が絡んできくるんです。
 
吉田新田とよばれ、かつては田んぼであった関外地区も、明治時代にもなると横浜の中心部、関内地区の発展に伴って都市化が進みました。
 
そして明治の中ごろには、大岡川に加えて吉田新田内の水路などの河川網が、関内・関外地区をめぐり人や物を運ぶ重要な輸送路として確立されます。
川を航行したのは主に、石材、木材などの建築資材をはじめ、石炭、食料品、肥料、生活用品などさまざまな貨物を扱う艀( はしけ) と呼ばれる小型の運搬船であったといいます。

艀にはいろいろな種類がありましたが、1890 年前後から、堅固で多くの貨物が運べる達磨( だるま) 船が主流になったといいます。 
開港以後、当時の大岡川河口、現在の野毛地区の川沿いには米問屋など、荷物の運搬に水運を利用する卸売業者が増えていき、その傾向が日ノ出町の川沿いまで広がって、こちらにも木材問屋などができたと見られています。

このようにして、黄金町や日ノ出町には問屋などの商業が増え始め、町が出来上がっていったわけです。

長々と地域の発展について書いてしまいましたが、なぜかつては柳並木だったのか、という話に戻します。

むかし柳は、枝の揺れる姿が人を招く、と言われて商業地域では好まれていたそうで、この風習が柳並木のワケみたいです。
大岡川沿いでは、太田橋たもとのこの1本が残された柳みたいです。
(追記:ここよりも上流の南太田の方にもう一本あるのをこの間電車から確認しました!)


なんかすごく日本的で風流な感じがして私は好きです。

sasaki  

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2008年10月23日

横浜開港 - 太田陣屋

1859年(安政6)に横浜が開港すると、港の周辺は大きな変化を遂げました。

現在の黄金町付近である太田村もその影響を受け、

開港の年、現在の日ノ出町駅近くに警固の拠点施設となる太田陣屋が建てられました。

太田陣屋は、その後1866年(慶応2)にはフランス式の歩兵・砲兵・騎兵の訓練を行うための三兵伝習所となり、

日本としては極めて早い時期に西洋式の陸軍の軍事訓練を行いました。

1867年に訓練場は東京へ移り、陣屋としての役割も1871年(明治4)に終わりましたが、

その後も県兵隊や陸軍の施設として使われました。


terada  

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2008年10月23日

歴史一発目!

早速地域の歴史一発目です!

まず最初は 「吉田新田」です!



 JR関内駅周辺の関内・関外と呼ばれる地区の大部分は、江戸時代の初めころまで東京湾の入り江でした。

入り江の周りには、横浜村・太田村・蒔田村などの村々があり、現在の黄金町の辺りは太田村に属していました。

太田村の名は、室町時代の武将・太田道灌の屋敷があったことに由来するという説もあります。

17世紀後半、村々に面していた入り江の大部分が埋め立てられて陸地となりました。

この埋め立てを行ったのは江戸の材木商である吉田勘兵衛という人物であったことから、

この新しい土地は「吉田新田」と呼ばれるようになりました。

新田は、主に水田として利用され、太田村も含めてあちこちの村から農民が移住してきました。

terada
  

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